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私が県道260号線を車で走っていたときのことです。

時間は、太陽がはっきりとは見えていませんでしたが、
空がぼんやりと明るくなっていて、
夜があけようとしている時間でした。

車は東北新幹線の高架と並走していたので、
だいたい一関市真柴のあたりで、
私はもう少しだなと思いながら、
時間を確認して、家に帰れる時間を考えていました。

道路は、高架の反対側には電柱が立ちならび、
電柱のすぐ後ろが土手のようになっていて、
車や人の姿は見えませんでしたが、
疲れを感じていた私は体を少し動かして、
道路の前方に注意を向けなおしました。

道路の土手側にミラーが設置されていて、
ライトの光を反射しているのが見えた時、
ミラーの後ろ、土手の中ほどに、
くすんだピンク色で太めのテープ
のようなものが
ヒラヒラとなびいていました。

土手には途中までの階段があり、
ほかにも白い柱や看板が見えたので、
なにかあるのか興味が湧いて、少しだけ速度を落としました。

土手には石碑がならんでいて、
白い柱には『文化財 **の墓』と書いてあるのが読め、
私は誰か偉い人の墓なのだろうと思いながら、
車の速度を戻しました。

アレっと思ったのは、ヒラヒラなびいていたものが
いつの間にか消えていた
ことでした。

私がそれに気がついたのは、墓を通り過ぎた後のことです。

サイドミラー越しに後ろを見ても、あたりはまだ暗く、
墓のあった場所の様子を確認することはできませんでした。

道路沿いにあったのは、処刑された罪人・豊吉之墓です。

昔、墓のすぐ近くに橋田原処刑場があり、
豊吉も橋田原で処刑された一人です。

豊吉だけ特別に墓がもうけられたのは、
豊吉の遺体が人体解剖用の検体として使われたからです。

杉田玄白が蘭学に触れ、解体新書を書いた時代のことです。

岩手でも、人体の構造を理解するために、
解剖用の人体が必要になりました。

そこで、処刑された罪人の人体を用いての解剖が、
豊吉の遺体を使っておこなわれた
のです。

人体解剖の記録は残っているのですが、
豊吉については、犯した罪を悔やんでいたのか、
くだされた罰に怒りをおぼえていたのか。

記録にはその名前しか残っていません

もともと豊吉之墓は、
橋田原処刑場のあった場所にあったのだそうです。

豊吉が怒りも恨みもなく、
静かに眠っていることを願うばかり
です。

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