粟田口刑場跡は、京都府山科区にある処刑場跡です。
「京の七口」のひとつである粟田口は、
東海道から京都の町への入り口にあたります。
このような大きな街道筋の外れには、
見せしめもかねて大きな刑場が置かれていました。
当時、日本最大とされていたこの処刑場。
粟田口刑場は江戸時代よりも前から刑場としての役割を果たしており、
約1万5000人ほどがここで処刑されたと言われています。
その歴史は平安時代までさかのぼるとか。
例を挙げると、本能寺の変を起こし、
天王山の戦いに敗れ処刑された明智光秀。
打ち首にされ、この地でその遺体を晒されたとされています。
また、京都にいたキリシタンを処刑したという記録も残っており、
江戸時代では毎年3回公開処刑が行われていたそうです。
当時京都の人口は約20万人、
13人に一人が処刑されていた計算になります。
粟田口刑場は明治維新後に廃止。明治5(1872)年、
舎密局の申請で京都府によってこの地に粟田口解剖場が置かれました。
解剖場は四面ガラス張りの建物、
この翌年に刑死した4名の解剖が行われ、
多くの医師たちがその様子を参観したと記録されているそうです。
しかしこの年、解剖場は病院に移転、土地だけが残されました。
また、この近くにある観光スポット「蹴上インクライン」。
蹴上という地名、「受刑を拒む受刑者を蹴り上げながら刑場に連行した」
という由来があるそうです。
現在、粟田口刑場跡には解剖場時代の供養塔、
「萬霊供養塔」「南無阿弥陀仏」と刻まれた二つの石碑が建っています。
この石碑に近づくと怪奇現象が起こると言われており、
私の知り合いは、この地で首のない霊を目撃したそうです。
付近にあった看板には、「磔、獄門、火刑での処刑が行われた」
と書いてあったそう。
中には、首だけの霊を見た人もいるんだとか。
行かないに越したことはありませんが、
もし行かれる方は首なし・首だけの霊と、
自分の首にも注意してください。
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