旧日本陸軍病院跡地:戦場の過酷さと精神的外傷の深刻さを象徴する場

旧日本陸軍病院跡地:戦争神経症と野戦病院の記憶が残す集団的トラウマ

太平洋戦争期、日本陸軍が設置した病院群は、負傷兵の治療を目的としながらも、戦場の過酷さと精神的外傷の深刻さを象徴する場となった。特に精神神経科を専門とする施設や沖縄の洞窟野戦病院では、肉体的傷害に加え、現在のPTSDに相当する「戦争神経症」が多数発生した。

これらの跡地は多くが現代の医療施設や平和記念施設に転用されているが、当時の記録に残る兵士・学徒の苦痛は、文化的・心理的な「残響」として今日も語り継がれている。本稿では、新聞報道・公式資料・生存者証言集・学術文献に基づき史実を検証し、心霊関連の言説を公開情報に限り客観的に整理する。

国府台陸軍病院 ― 「戦争神経症」専門施設と保存された8002人分のカルテ

千葉県市川市国府台に所在した国府台陸軍病院は、1899(明治32)年に国府台衛戍病院として開設され、1936(昭和11)年に国府台陸軍病院と改称された。1938年頃より精神神経疾患の治療を専門とする施設として機能し、終戦までの約7年間に約1万人の兵士が入院・治療を受けた(東京新聞2025年報道、浅井利勇資料)。

症状は幻聴、フラッシュバック、不眠、精神乖離など、現代のPTSDに相当するものが主流で、戦闘体験や軍隊生活が直接的原因と記録されている。例として、山形県出身の元郵便局員は1937年に動員され中国山東省で民間人6人を殺害した罪悪感から悪夢と不安に苛まれ、1938年に精神乖離症と診断され除隊となった(同カルテ複写)。

戦後、軍からカルテ焼却命令が出された際、当時の医師らはドラム缶に詰めて土中に埋蔵。1951年に掘り出され、下総精神医療センターに保管された。元軍医少佐で後の浅井病院初代院長・浅井利勇氏(1911-2000)は1970年代より8002人分の原本を複写・整理し、15年余りを費やして後世に残した。浅井氏は自著『うずもれた大戦の犠牲者』で次のように記している。

「貴重なこのあかしを、真実を、残しておきたい」

現在、同地は国立国際医療研究センター国府台病院として機能しており、旧精神科病棟があった里見公園周辺は静かな緑地となっている。保存されたカルテは戦争が個人の精神に与えた長期的な傷を、医学史・精神医学の観点から貴重な一次資料として提供し続けている。

南風原沖縄陸軍病院 ― ひめゆり学徒隊が看取った洞窟野戦病院の惨状

ガラビ防空壕(ガラピガマ):八重瀬町の霊が彷徨うガマと戦争の泣き声

沖縄戦期、1945年3月23日以降、南風原町の丘に掘られた約30〜40本の壕を主施設とした沖縄陸軍病院は、那覇市内から移転した野戦病院として機能した。内科・外科・伝染病科からすべて外科に切り替えられ、重傷兵が殺到。医薬品・食料・麻酔薬の極端な不足下で、切断手術や遺体処理が日常化した(ひめゆり平和祈念資料館・南風原町史)。

沖縄県立第一高等女学校・沖縄師範学校女子部の生徒・教師計240人(ひめゆり学徒隊)が看護補助として動員され、食事運び、水汲み、遺体埋葬に従事した。食料はテニスボール大のおにぎりからピンポン玉大に激減し、生徒らは生理停止・シラミ発生・衰弱を経験。5月下旬の南部撤退後、6月18日夜に病院は解散命令を発令し、重傷患者を置き去りにした。学徒隊の死者・行方不明者は136人(動員者の約57%)に達し、そのうち117人(86%)が解散命令後の数日間に集中した(読売新聞2025年報道、ひめゆり平和祈念資料館資料)。

生存者・与那覇百子氏(当時沖縄師範学校女子部予科)は、壕内の惨状を「『痛いよう』『殺してくれ』の泣き声やうめき声が終日聞こえ、切り落とされた上肢や下肢が10本以上も置かれていた」と証言している。現在、南風原壕群20号などは公開保存され、血や膿の臭いを再現した展示を通じて平和学習の場となっている。壕の暗闇は、集団的トラウマの象徴として機能する。

陸軍軍医学校・臨時東京第一陸軍病院跡 ― 1989年人骨発見が示す戦傷研究の現場

戸山公園箱根山:旧陸軍軍医学校跡の人骨発見と歴史的記憶

東京都新宿区戸山の陸軍軍医学校および隣接する臨時東京第一陸軍病院は、戦傷例の研究拠点であった。地下坑道で両施設が連結され、中国大陸からの戦死体標本の保管・研究が行われていた。1989年7月、国立感染症研究所建設工事中に100体を超える人骨が発見され、一部に銃創痕、外科的切断痕、脳外科様手術跡、フォルマリン固定痕が確認された(厚生省発表、当時科学捜査研究所鑑定)。

人骨は主にモンゴロイド系で、戦傷医学研究のための収集と推定されるが、詳細な身元は未解明のままである。現在、同地は国立国際医療研究センター等の研究施設街となっており、発見現場には慰霊碑が建立されている。この事件は、戦争医学の倫理的闇を象徴する歴史的事実として、市民団体による継続的な調査が続けられている。

その他の本土旧陸軍病院跡 ― 中野・千葉などに見る負の遺産

江古田の森公園:旧結核療養所跡地の歴史的記憶と心霊噂

東京都中野区の旧中野病院跡(現・江古田の森公園)は、結核隔離施設として機能した公的療養所(陸軍直轄ではないが戦時下軍関連利用の記録あり)で、戦後の廃墟化後に心霊探索サイト(ghostmap.jp等)で「女性の霊」「うめき声」の報告が散見される。これらは結核患者の隔離・死の記憶が心理的に投影されたものと解釈される。

千葉市の旧千葉陸軍病院(現・国立病院機構千葉医療センター)は1908年開設、1936年に陸軍病院となり、空襲を免れて負傷者を受け入れた。門柱が当時の面影を残す。

これらに共通するのは、皇軍の「不屈の精神」を崩す心の傷を公式に矮小化・秘匿した軍の姿勢である。戦後、国立病院群として引き継がれた歴史は、近代戦争が人体と精神に課した代償を問い続ける。

旧陸軍病院跡(一部)

他国との比較と文化的意義

欧米軍では「shell shock」(後のPTSD)概念が比較的早期に認識され、公開的な記録・治療が行われたのに対し、日本陸軍では「皇軍兵士に軟弱な心などない」との思想から精神疾患の存在を矮小化し、カルテ焼却を命じるなど隠蔽傾向が強かった。これは集団主義と「耐えるべきもの」としての苦痛の内面化という日本的文脈による側面もある。跡地の静けさは、欧米のロマン主義的廃墟美とは異なり、忘却されかけた無数の叫びを湛える「負の遺産」として機能する。

結語 ― 跡地を訪れる意義

旧陸軍病院跡を訪れることは、単なる歴史散策ではない。そこに刻まれた戦争神経症と野戦壕の記憶に耳を澄ます行為は、近代戦争が人体と精神に与えた代償を直視する学術的・文化的営みである。心霊現象とされる「うめき声」や「気配」の報告は、科学的には環境要因・暗示効果・集団的トラウマの心理的再現と説明可能だが、社会が犠牲者を忘却しないための装置としても働いている。静かな敷地で感じる重い空気は、過去の警告であり、平和への教訓である。

本稿は、東京新聞・産経新聞・読売新聞(2024-2025年報道)、ひめゆり平和祈念資料館公式資料、南風原町史、浅井利勇『うずもれた大戦の犠牲者』、文化庁・厚生労働省資料、ghostmap.jp等の公開情報に基づく検証結果を踏まえ、客観的立場から執筆した。心霊関連言説は探索者投稿の傾向に留め、捏造を一切避けている。

最新情報(2026年2月時点)では、国府台病院・南風原壕群ともに平和学習施設として公開されており、現地訪問時は歴史的敬意を払うことを推奨する。